ヒグマは奥山の森林地帯を中心に活動していますが、季節によっては海岸や河川沿い、あるいは農耕地に接する人里に近い領域を含む、多様な環境を利用する動物です。彼らは「食べる」、「排泄する」という行為を通じて、非常に多様な生物と直接的あるいは間接的な影響を及ぼし合っています。例えば植物との関係を見てみると、サクラやヤマブドウ、サルナシなどヒグマが好む植物の種子や、キンミズヒキの種子などいわゆる“ひっつき虫”は、ヒグマという媒体を介して別の土地に運ばれることで“移動”することが可能になります (Tsunamoto et al, 2024)。
このようにヒグマは“種子散布者”として植物の分散に貢献しているだけでなく、近年進行しつつある気候変動に植物が適応する上でも、非常に大きな役割を担うと考えられています。温暖化が進むと植物の生息適地が標高の高い所に徐々にシフトしていくと予想されますが、ヒグマが植物の実を食べ、山を登り、種子を含む糞を排泄することで、自ら動くことのできない植物に代わりその分布を新たな生息適地に導くことができるわけです。この点において、植物にとってヒグマは、温暖化の時代に生きる上での救世主ということができるでしょう。
また種子だけでなく、植物が育つための栄養素を森林に提供する役割も担っています。例えば、知床半島に生息するヒグマは8月下旬から10月にかけて河川を遡上するカラフトマスやシロザケを大量に食べます。しかしこの時期のヒグマはサケ科魚類ばかりを食べている訳ではありません。亜高山帯に生えているハイマツの実や、森の中で手に入るサクラの実、ドングリの一種であるミズナラなどをバランス良く食べるため、山と海を行き来するのです (Shirane et al, 2021)。
その過程において、窒素などのサケ由来成分を豊富に含む糞が森へ落とされ、土となり、植物に栄養をもたらします。このようにヒグマは、海域と陸域の物質循環を促進する存在として、生態系の中で重要な役割を担っています。
次に、ヒグマと他動物との関係を考えてみましょう。
ヒグマと生息地を同じくする大型哺乳類としてエゾシカが挙げられます。シカはヒグマにとって貴重なタンパク源ですが、機敏性に勝るシカをヒグマが襲って食べることは稀であり、冬を越せず死亡したシカの死体や、生まれたばかりの新生子を日和見的に得ることが一般的です (図1)。しかし北海道では近年、エゾシカの生息域が広がり、生息密度が高まったことで、ヒグマにとってシカが身近な食べ物となってきています (Kobayashi et al, 2012)。
図1(撮影:山中正実氏)
特にエゾシカの生息密度が高く、個体数を減らすために人が有害捕獲や狩猟を盛んに行なっている地域においては、シカの死体が高頻度でクマの生息域内に放置されている状況が生じています。このような地域においては、季節を問わずシカを高頻度で食しているような肉食傾向の強いヒグマが一定数存在すると考えられます。こうしてみると、シカの増加はヒグマにとって良いことのように思えるかもしれせん。しかし実際はヒグマにとってシカは食べ物を巡る“競合相手”としての一面も持ち合わせています。両種とも、セリ科草本などを好んで採食するという共通した食性を有しています。例えば知床半島国立公園では、シカが低密度であった1980年代まではヒグマの好む草本が生い茂り、春から初夏にかけて主要な食べ物となっていました。しかし1990年代以降、急速にシカの個体数が増加すると、シカによる過度の採食圧により植生が大きく変化し、ヒグマの好む草本の資源量は非常に少なくなっています。この結果として知床のヒグマは、イタヤカエデの若葉を食べるなど (図2)、以前には見られなかった採食行動を見せるようになっています (山中正実, 2020)。またシカは食べ物の少ない冬季に行う樹皮剥ぎにより、ヤマグワやミズナラなど、果実を生産する樹木を枯死させたり、発芽したばかりのミズナラを食べたり、ヒグマにとって好ましくない方向へ森林環境を変えてしまいます。このようにヒグマとシカは「食う—食われる」の関係のみでは説明できない、複雑な種間関係を有しています。
図2(撮影:山中正実氏)
ヒグマの存在が、生存や繁殖する上で重要な位置を占める生物も多く存在します。例えばサケを捕まえようとしているヒグマの周りには、多くのカラスがそのおこぼれであるホッチャレを狙って集まっていますし、キツネも例外ではありません。ヒグマの糞の中に集まる糞虫もまた、ヒグマにより命をつなぐ生物の一つです。また、ヒグマそのものに“住み着く”ことで次世代を残す生物もいます。
代表的なものとして、サナダムシ(日本海裂頭条虫)が挙げられます。この寄生虫は人やイヌなどが終宿主になる条虫の一種で、サケ科魚類の生食により宿主の腸管内に寄生します。一般的によく知られているサナダムシですが、自然界において終宿主としてライフサイクルを支えているのはヒグマであると考えられています (太田ら, 2021)。知床半島では、9月になると、数メートルにもなる虫体を肛門から垂らしたまま、川沿いで魚を探して彷徨うヒグマを目撃することがあります (図3)。ヒグマの腸管内で成長したサナダムシは、数え切れないほどの虫卵を排泄し、その一部が甲殻類などの第一中間宿主に取り込まれ、その後サケと共に遙かなる海の旅に出て、最終的にまたヒグマの体内へと戻ってくるのです。サケを食べて栄養を蓄えるヒグマをうまく利用して、短期間に急速に成長し一気に次世代を残す彼らの戦略には、自然の叡智を感じざるを得ません。
図3
最後に、ヒグマと人との関係性について、人と人以外の動物が共通して感染する人獣共通感染症という観点から考えてみます。近年の研究の発展により、野生動物が有する様々な感染症がマダニなど節足動物の吸血を介して人に感染し、時に重篤な症状を起こす実態が次々と明らかになってきました。ヒグマはエゾシカなどと同様に大型の哺乳類として、多くのマダニ種に寄生されており、成ダニの好適宿主としてマダニの増殖に関わることで、人のマダニ媒介性感染症リスクを高めうる存在と言えます。これまでのところ北海道のヒグマを対象とした研究では、微生物の一種であるバベシア属、タイレリア属の微生物の感染が報告されているものの、人のマダニ媒介性感染症の原因となる微生物の保有は確認されていません (Moustafa et al, 2020)。しかしながら本州のツキノワグマや、海外のヒグマの研究では、ピロプラズマ症を引き起こすバベシア、ライム病を引き起こすボレリアなど、時として人に致死的影響を与える人獣共通感染症の病原体を保有しうることが報告されています (Di Salvo and Chomel, 2020)。近年ヒグマと人の生活圏が縮まりつつある中、ヒグマと人との間で感染症が伝播する可能性が考えられるため、さらなる研究が求められています。
(執筆:下鶴倫人)
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