本稿は、日本哺乳類学会 (2023) 「日本の哺乳類学 百年のあゆみ」にて掲載された、「北⽅⽣態系の保全と⼤型哺乳類の研究」の内容を、再編集したものです。
1930年、後の北海道大学農学部農業生物学科応用動物学教室である北海道帝国大学動物学昆虫学養蚕学第一講座の教授となった犬飼哲夫は、後に自然誌的研究・応用動物学的研究・民族学的研究など幅広い分野への志向を強めていきました。1930年代には三十数編の報文を発表し、うち20編は道内の哺乳類から鳥類、両生類、魚類に至る幅広い内容でした (朝比奈1981)。犬飼はそれ以降も哺乳類について数多くの調査研究報告を出しています。もし犬飼の仕事がなかったら、現在の我々は開拓期から戦前にいたる古い時代の北海道の野生動物の状況を伺い知ることはできなかったでしょう。また、犬飼は門下生を幅広い分野の研究に自由に進ませました。そのことがその後のヒグマも含む北海道の生物群集や生態学研究の発展につながったのです。
犬飼を源流とする北海道大学農学部応用動物教室 (以下 北大応用動物学教室) の実学的研究の流れを最も色濃く継承したのは、同教室から帯広畜産大学野生動物管理学教室教授となった芳賀良一です。芳賀は犬飼が行ったような人間社会との関わりの中で野生動物の利活用や被害対策を進めるための研究を重視しました。ヒグマの被害実態調査やそのほか狩猟鳥獣に関する研究がそれです。
犬飼は1961年に北大応用動物教室教授を退官しましたが、その後もヒグマに関する研究を精力的に続けました。主に被害対策に着目して、被害実態調査や硝酸ストリキニーネによるヒグマの毒殺法の研究などの論文を書きました。その研究姿勢は、ヒグマは害獣であり、如何に減らすべきかという視点でした。1970年にはカナダ、カルガリーで行われた第2回国際クマ会議に出席して、北海道のヒグマ被害が深刻であり、道庁は懸賞金を出してヒグマを駆除していること、狩猟期間以外でも無制限に撃てるようにしているがなかなか減らないといった報告をしました。それは世界の趨勢として減少していくクマ類をいかに保護するかという議論が行われていた中で異色のものでした。犬飼は同年創設された北海道開拓記念館 (現 北海道博物館) の初代館長に就任しました。その後、同記念館の門崎允昭との共同研究で多くのヒグマに関する研究論文を執筆しました。その内容は被害調査報告、食性研究、年齢査定法、冬眠穴調査など多彩でした (犬飼・門崎1983など) 。
戦後、大学に残る戦前からの権威主義的な研究組織に対して反発し、対等な研究者同士の自発的な協同によって研究成果を上げようという「研究グループ」活動が盛んとなりました。日本哺乳類学会のルーツの一つになった「哺乳類研究グループ」がその典型です。北海道の野生動物研究に関する「研究グループ」の胎動は北大応用動物教室から始まり、大泰司紀之 (北海道大学名誉教授) らの活発な研究グループ活動につながって、道内の哺乳類研究は多彩な展開を示していったのです。
それら「研究グループ」の中で、早い段階で生まれたものの一つが、1970年に、北大応用動物教室の大学院生であった小川巌 (エコネットワーク代表)、前田喜四雄 (奈良教育大学名誉教授)、出羽寛 (旭川大学名誉教授) らが立ち上げた北海道大学ヒグマ研究グループ (以下 北大クマ研) です (図1)。
図1. 北大クマ研発足の年、1970年の大雪山調査における福士さん宅前での記念写真。後列は左端が新妻昭夫、左から3番目が出羽寛、中央が小川巌、右端は松岡茂。前列は左から2番目が前田喜四雄など創生期のメンバーが写っている。
北大クマ研は創設翌年には機関誌「ひぐま通信」を発刊。創刊号に以下のように述べています。「ヒグマは多大な関心を持たれながら、調査研究はほとんどなされていない。・・・ (中略) ・・まず我々がヒグマに取り組む姿勢をはっきりと示し、知り得た事柄を公にすることによってヒグマ研究の起爆剤になればと考えた」また、「各人が最も興味を持つ事柄を明確にして、それを自主的に遂行する」と記しています。その自主性は、発足時から北大応用動物教室のメンバーだけでなく学部生も加わっていたことに表われているといえます。その一人の新妻昭夫 (元 恵泉女学園大学教授) はまだ教養部の1年生でした。彼らの後に続き、当時学部生の初期メンバーとして米田政明 (自然環境研究センター研究員)、近藤誠司 (北海道大学名誉教授)、中川元 (知床自然大学院大学設立財団理事)、そして、その後北大クマ研のフィールド研究を牽引していくことになる青井俊樹 (岩手大学名誉教授)、後にシカ研究へ転身した梶光一 (東京農工大学名誉教授) ・小泉透 (国立研究開発法人森林研究・整備機構フェロー) らも加わっていきました。
発足メンバーの北大応用動物教室の大学院生たちは、まずはヒグマを見てやろうと大雪山に通いました。しかし、なかなかクマは見えず、痕跡調査や聞き取り調査などの予備的な成果に留まりました。初期の成果として特筆すべきは、ロシアの研究者ブロムレイ著の「南部シベリアのヒグマとツキノワグマ」の翻訳に、何と1年生の新妻がとりかかり、道立林業試験場 (当時) の藤巻裕蔵の手を借りながらも、クマ研発足後3年目の1972年には出版したことです (図2)。当時良い文献が乏しい中、この本はクマの生態学のバイブルとして長く読み継がれることになりました。
図2.大学1年生の新妻昭夫が言い出しっぺとなって出版にこぎ着けた訳本「ヒグマとツキノワグマ ソ連極東南部における比較生態学的研究」。
北大クマ研発足メンバーに続く世代の米田政明は、北大応用動物教室の卒業・修士論文として、ヒグマの年齢査定や捕獲個体の齢構成の研究、頭骨の性的二型や地理的変異の研究に取り組みました (米田・阿部1976など)。その後も同教室では、北大クマ研のメンバーだった間野勉 (北海道立総合研究機構専門研究員)、大舘智志 (北海道大学低温科学研究所助教)、佐藤喜和 (酪農学園大学教授) らによるヒグマ研究が続けられました。林学科の学部生だった梶光一は卒業論文でヒグマ研究に取り組み、春グマ駆除が親子連れに対して高い捕獲圧をかけたこと、多雪地帯の日本海側で個体数の減少と分布の分断化をまねいたことを明らかにしました (梶 1982)。
また、彼らは新たな調査フィールドを求めて、小樽の朝里山中、知床半島基部の標津、日高、北大天塩演習林等など各地を回りました。林学科の学生だった大河康隆らは、千歳アイヌの人々の支笏湖周辺における「穴グマ猟」に同行し、北海道で初めて冬眠穴の構造と立地環境に関する本格的な研究を行いました (大河1980)。大河の後を引き継いだ大石知生はアイヌの人々の猟をについて民族学的・社会学的切り口で研究を行いました (大石1982)。また、のぼりべつクマ牧場は、学芸員の前田菜穗子の協力をえて飼育個体で実験的な試みを行う場となり、後に坪田敏男 (北海道大学獣医学研究院教授) らは繁殖生理に関する研究を行うことになったのです (Tsubota et al. 1994など)。
フィールドを求めて各地を回る中で、北大天塩地方演習林 (現、天塩研究林) は拠点となる施設もあり、天然林中心の約225㎢という広大な面積を有すること、そしてヒグマの生息も濃厚であることなどから調査の中心地となっていきました (図3)。米田らと同世代で林学科の学生であった青井は、後にこの演習林の助手として職を得てさらに研究を続けることになりました。それ以来、クマ研学生たちは、春の一斉調査、夏の一斉調査の年2回1〜2週間この演習林全域でヒグマの痕跡調査をすすめてきています。それは40年以上を経た今日も続いているのです。青井はクマ研の協力も得ながら長期的に研究を進め、博士論文「北海道北部地方における狩猟と森林環境の変遷がヒグマの生息動態に与える影響」 (青井1990) をまとめました。天塩地方演習林では北海道で初めてのヒグマの生け捕りと電波追跡調査も、青井や北大クマ研によって行われました (北海道大学ヒグマ研究グループ1983)。
この北大クマ研による同演習林における長期のモニタリングは、春グマ駆除制度による強い捕獲圧でヒグマが衰退していき、同制度廃止後に個体群が回復したことを明らかにした唯一の記録となりました (Takinami et al. 2021)。これは学生が市民科学者の一員として、大型食肉目の保護管理に貢献する知見をもたらし得ることを示しています。
図3. 1980年、北大天塩地方演習林における北大クマ研の一斉調査。拠点となっていた16線小屋は若者たちの熱気にあふれていた。一斉調査は今もなお続けられている。
1980年代初期、天塩地方演習林のヒグマ個体群が衰退すると、北大クマ研の学生たちは新しいフィールドを開拓していきました。その一つがちょうど北海道による自然生態系総合調査が行われていた知床半島です。当時、大泰司が立ち上げた知床動物研究グループに参画した山中は調査地の開拓にあたり、後に斜里町による知床財団の設立に加わることになりました。知床では今日も国立公園・世界遺産の保全管理のために知床財団によるヒグマの保護管理活動や調査研究が続いています (山中ほか2016など)。2010年からは北大獣医学部の坪田や下鶴倫人 (北大獣医学部准教授) らとの共同研究で遺伝子分析を活用した多様な研究が展開されています (Shimozuru et al. 2017など)。これらの過程で、日本初の威嚇弾によるヒグマの非致死的追い払い、バイオプシダートによる遺伝子分析試料の直接的な採取 (図4)、野生下のクマの麻酔銃による生体捕獲などの技術も確立されました。最近は根本唯 (東京農業大学助教) も加わって、GPSとカメラ付き首輪を装着したヒグマの行動生態等の研究も行われはじめています (図5)。下鶴を中心とする北大獣医学部のグループの精力的な研究は多くの論文を生み、また白根ゆり・神保美渚 (道立総合研究機構) など、次世代を担う研究者を輩出しつつあります。
図4. 麻酔銃でバイオプシダートを撃って取った組織片の遺伝子分析や、注射筒を発射して麻酔をかける手法が確立された。
図5. カメラ付きGPS首輪が捉えた、ヒグマの行動を表す映像 (東京農業大学、根本唯氏提供)
1980年代初期には、道南の渡島半島も研究フィールドとして開拓されました。米田一彦 (現、日本ツキノワグマ研究所所長) や米田政明の協力を得て、間野勉らはこの地で研究を展開することになったのです。間野らは同地域の捕獲個体の分析から個体群動態を明らかにし、また北海道のヒグマでは初めて複数個体を長期的に電波追跡することに成功しました (Mano 1994など)。
早稲田宏一 (EnVision環境保全事務所) と青井は、1996年から3年間にわたって、勇払原野をはさんで胆振地方と日高地方を行き来するオスグマの広大な行動圏を電波追跡調査で明らかにしました。これはオス成獣の継続的な追跡調査に成功した初めての例でした。
1991年には北海道環境科学研究センター (現,道総研環境・地質研究所自然環境部) が設立されて間野がヒグマ研究で加わりました。1998年には同センターの出先機関である道南地区野生生物室が江差町におかれて、釣賀一二三 (道総研環境・地質研究所自然環境部長) らがヒグマ研究を展開することにつながりました。以来今日まで、道総研環境・地質研究所は北海道唯一のヒグマに関わる公的な試験研究機関として、個体群のモニタリング、個体数推定法の開発、被害実態や対策の研究などを継続的に進めてきています。
佐藤喜和は日本大学生物資源科学部に職を得て、十勝地方の浦幌町を拠点としたヒグマ研究を1998年から開始しました。浦幌では日大の学生や後に佐藤が移った酪農学園大学の学生たち、そして帯広畜産大学の学生たちも参加して、毎年さまざまテーマの研究を展開しています。浦幌は道内でもヒグマの生態に関する情報が最も重層的に蓄積された地域となりました (Sato et al. 2008など)。浦幌のフィールドでは、現在も佐藤ら酪農学園大による精力的な研究が行われており、その過程で小林喬子 (自然環境研究センター研究員) や伊藤哲治 (酪農学園大学講師) をはじめ、クマ研究や鳥獣行政に専門的に取り組む人材が多く輩出されてきています。
増田隆一 (北海道大学理学部教授) のチームは,近年、分子系統地理学的研究でめざましい成果を上げてきています。増田の指導を受けた松橋珠子 (近畿大学講師) は、ミトコンドリアDNAのコントロール領域の分子系統解析を行い、北海道のヒグマは道央−道北系統、道東系統、道南系統の3つのグループが地理的に分かれて分布することを明らかにして注目をあびました (Matsuhashi et al.1999)。その後も増田の研究室では、ヒグマの系統進化や系統群の地理的分布の謎の解明に精力的に取り組んでいます (Hirata et al. 2017; Endo et al. 2021)。
こうした流れの中で、現在でもヒグマ研究は日々発展を遂げています。ここに収録しきれなかった研究は多数あり、その分野は生態学から形態学、遺伝学まで、幅広い分野のアプローチを駆使した研究が展開されています。ヒグマ研究の「適応放散」は、これからも続いていくことでしょう。
※文中の人物の所属・肩書きは2024年現在
(執筆・編集:山中正実)
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